1969 Lotus Elan S4 FHC “Black Badge”
- 完璧なレストレーションが施された1台
- フィックスドヘッドクーペ
- ジム・クラークに捧げたブラックバッジ
- ウェーバー製40DCOEキャブレター
車両説明
●完璧にレストアされた”ブラックバッジ”モデル
天才的なドライビングスキルを誇り、ロータスのレース活動を牽引してきた伝説のF1ドライバー、ジム・クラーク。この「エランS4」は、事故(1968年のF2ホッケンハイム)で亡くなったクラークに捧げて、特別にエンブレムが黒く塗られた通称”ブラックバッジモデル”だ。
ブラックバッジは、彼の喪中の限られた期間にのみ生産されたモデルであり、非常に希少性が高いことで知られている。
また、それに加えて当個体最大の特徴となっているのが、完璧なレストアが行われている車両であるということだ。当個体はワンオーナーの下、35年もの間ガレージ内にて厳重に保管されていた。その後、現オーナーの手に渡り、ボディ、下回り、内装に至るまで、妥協のない徹底的なレストレーションが行われたのである。
エンジンルームも抜かりなく完璧な状態に仕上げられており、フードを開ければ名機「ロータスツインカム」が鎮座する。またS4には、欧州排ガス規制の関係からゼニス・ストロンバーグ製のキャブを搭載する個体が存在するが、当個体はより高性能なウェーバー製40DCOEを搭載している。
完璧なコンディション、そしてジム・クラークの”伝説”を受け継いだコレクタブルな1台。この車は、60年代モータースポーツ全盛期を象徴する存在として、今後もその価値を高めていくことだろう。
●傑作ライトウェイトスポーツの誕生
「エラン」は、ロータス史上初の量産スポーツカーでありながら、”ライトウェイトスポーツ”というカテゴリーを完成させた革新的な車両だった。
その設計は、その後の自動車史に多大な影響を及ぼし、「ユーノスロードスター」、「トヨタ2000GT」など名だたる国産名車たちも、「エラン」を手本に設計が行われたと言われている。
エランがそれほどまでに強い影響力を持った所以は一体どこにあったのだろうか?
それは洗練された軽量コンパクトなボディ、そしてロータスのレーシングコンストラクターズとしてのノウハウが存分に活かされたエンジンにこそあったと言えるだろう。
まず、ロータスは前モデルとなる「エリート」が抱えていた生産コストの高さ、そしてねじれ方向の剛性不足という問題の解消を課題とした。
そこでボディ設計を担当したロン・ヒックマンは、銅板バックボーンフレームとFRPボディを組み合わせることを考案。フレームをY字型に組むことで、車両重量わずか約640kgの超軽量を実現しつつ、堅牢なボディを作り上げることに成功した。
それはまさに、スポーツカーにおける理想的なボディの誕生だったのである。
●ロータスの象徴となる高性能ツインカムエンジン
そして白眉がその理想的なボディに、傑作DOHCエンジン通称”ロータスツインカム”を搭載した点である。このエンジンはよく知られているように、「フォード コルチナ」に搭載されていたOHV 116E型エンジンがベースとなっている。
ロータスは、コヴェントリー・クライマックスの技術者ハリー・マンディの協力のもとで、独自のDOHCヘッドを開発し、これに組み込んだ。
さらにコスワースエンジニアリングにも協力を仰ぎ、着実なブラッシュアップが行われた。そして最初に登場したモデルは1.5リッターで最高出力100ps、後に1.6リッターへと排気量が引き上げられ、最高出力105psを発揮する高性能パワーユニットが完成した。
こうして生まれたロータスツインカム+超軽量ボディのパッケージングは、非常に高い運動性能を実現しつつ、ドライバーにまるで、車が自身の手足となったようなフィールを与える操作性に結実したのであった。
なるほど、ライトウェイトスポーツ、ないしはスポーツカーそのものの魅力でもある、”操る楽しさ”は、すでに60年代にこの「エラン」によって一つの完成形をみたのである。
History
■クラークとチャップマン
32歳の若さでこの世を去った天才ドライバー、ジムクラーク。彼の活躍は常にロータスと共にあった。彼がロータスの創始コーリン・チャップマンと運命の邂逅を果たすのは、1959年12月26日のブランハッチで行われたロータスのテストでのこと。
クラークは一座のレーシングカーの運転経験が全くなかったにも関わらず、コースを数周するだけで、すぐにマシンを乗りこなした。そしてテスト終盤ではワークスドライバーのグラハム・ヒルのラップタイムに肉薄する走りを見せ、チャップマンを大いに驚かせたのだった。
そしてその鬼神の如き速さとは裏腹に、クラークの謙虚で素朴な人柄にもチャップマンは大変気に入り、彼をすぐにチームへと迎え入れる。
こうして実現した天才的なレーシングエンジニアと、天才ドライバーの究極のタッグ。この出会いはもちろん二人の人生を大きく変え、モータースポーツ界に一大旋風を巻き起こしていく。
■共に作り上げていった”伝説”
クラークのF1での速さは62年から一気に結果へと結びついていった。その活躍を大きく後押ししたのが、チャップマンが新たに開発したバスタブ型モノコックフレームを採用したタイプ25の存在である。
タイプ25はこれまでのチューブラーフレームから重量はそのままに、圧倒的なボディ剛性を実現。現在のF1マシンにも使用されるカーボンモノコックの礎を築いた。
ロータスはこのタイプ25を62年シーズンから投入し、シリーズランキング2位を獲得。翌63年にはクラークは初のワールドドライバーズチャンピオンを獲得し、ロータスにコンストラクターズチャンピオンをもたらしたのであった。
さらにその活躍はF1だけに止まらない。クラークはロータスがエランのために開発した「ロータスツインカム」を搭載した「ロータス・コルチナ」を駆り、ツーリングカーレースに進出。
1964年の「英国ツーリング選手権」のタイトルを獲得皮切りに、翌65年のヨーロッパ、ベルギー、ニュージーランドと数々のレースを制覇し、ロータスとクラークの名を全世界に轟かせたのであった。
自動車レースに人生を捧げ、同じ夢を見た天才二人。彼ら二人の情熱と友情がなければ、今日のモータースポーツにおける進歩は見ることができなかったであろう。そして彼らが打ち立てたポールポジション獲得率45.8%という、ファン・マヌエル・ファンジオに次ぐ記録は今なお破られていない。