1975 Lancia Stratos Stradale / Gr.4 Conversion
- 生産台数僅かに492台のランチア・ストラスの中の1台
- ストラダーレ仕様からグループ4コンペティツイオーネ仕様にコンバージョン
- コンバージョン&レストア作業の各記録他、多数のヒストリードキュメントが付属
- スペシャリストの手による非常に完成度の高いグループ4コンバージョン仕様
- ランチア(フィアット社)による製造保証書付き
- 稀に見る良質なコンディションを保った1台
ランチア・ストラトスはWRC(世界ラリー選 手権)参戦を目的としたグループ4マシンとし て開発、生産された市販スポーツカーである。
ストラトスは、もともと1970年のトリノ・ ショーでベルトーネがランチア・フルヴィア HFのコンポーネンツを流用して製作したミ ッドシップカーのデザインスタディに付けら れた名前だった。アルピーヌA110の前に苦 戦を強いられていたフルヴィアHFに代わるワ ンオフのラリーマシンを模索していたランチ ア・コルセのチェーザレ・フィオリオが、そ の可能性に注目。ランチア、ベルトーネ双方 に働きかけた結果、前代未聞のラリー専用車 のプロジェクトが始動することとなった。
その際ドライバー、開発陣から上がったの は、車重1000kg以下、エンジン出力300hp以 上、2シーター、ミッドシップ、強化プラスティックまたはアルミの軽量ボディ、そして 可能な限り短いホイールベースという、当時 の常識を逸するコンセプトであった。
それらを実現するためにマルチェロ・ガン ディーニ、ジャンニ・トッティ、ニコラ・マ テラッツィ、マイク・パークス、ジャンパオ ロ・ダラーラといった錚々たる技術陣が集結。 早くも1971年のトリノ・ショーでストラトス HFプロトタイプが発表されている。
エンジンに関してもランチアの最高経営責 任者であるピエルーゴ・ゴッバートがジャン ニ・アニエッリ、エンツォ・フェラーリへ働 きかけた結果、グループ4のホモロゲに必要 な500台分のフェラーリ・ディーノV6ユニッ トの供給も決まり、1972年11月のトゥール・ ド・コルスでコンペティション・デビューを 果たしている。
その後生産化が遅々として進まなかった が、400台へと生産台数が緩和されたグルー プ4のホモロゲーションを1974年の開幕直前 に取得し、WRCへのワークス参戦を開始。以 降、“ストラトス劇場”とまでいわれた圧倒的 な強さを発揮し、1974年、75年、76年と3年 連続でWRCタイトルを獲得した。しかしなが ら親会社フィアットの意向により1977年か ら活動を縮小。1978年をもってWRCにおけ るストラトスのワークス活動は終了すること となる。
出品車は1975年6月12日にトリノのラン チアS.p.A.名義で登録されたストラダーレ( シャシーナンバー:829ARO 001923:以下 #1923)で、登録時のライセンスプレートは M 38442 TOであった。その後1977年にランチアからトリノの自動車販売店Salone Auto rivoli へと売却。個人オーナーの手に渡っている。
1987年4月、アパレルブランド“クリステ ィアーノ・フィッソーレ”の創業者であるク リスティアーノ・フィッソーレが#1923を購 入。ジェノバでレース活動を行なっている University Motorsで、トリノのストラトス・ スペシャルショップなどから入手したパーツ を使用しグループ4仕様へのコンバートを行 なっている。
2003年に#1923はドイツ・エンスドル フでフィアット&ランチアの代理店を行な っているストラトスのスペシャルショップ Autohaus Sparwaldへ と 売 却。 そ の 際 に、 機 関部分の大々的なメンテナンスが行われ、オ ーナーとなるイギリス人のロバート・ホワイトハウスのリクエストでボディカラーが、オ リジナルのブルーからアリタリア・カラーへ と変更された。
イギリスに#1923を持ち帰ったホワイトハ ウスは、ヒストリック・ラリーに出場するた め、 イ ギ リ スMSA(現 Motorsport UK)でFIA HTPペーパーを申請し、取得。いくつかのイ ベントに出走している。2006年頃に日本に輸 入された#1923は、1976年シーズンのワーク スカーに合わせてボディのリファインが行わ れ、素晴らしいコンディションに仕上げられ た。この#1923にはランチアの製造証明書も 付属しており、シャシーと搭載されているエ ンジンナンバー(829ARO)とがマッチング ナンバーであることも証明されている。