1972 Nissan Skyline 2000 GT-R KPGC10
- 大変希少な“KPGC10”のレースカー
- 日産プリンス・スポーツコーナーが販売
- 希少なオリジナルのレースパーツを多数装着
- “GT-Rの神様”と呼ばれた渡辺茂のコレクションカー
- 渡辺の手によって各部をアップデート&モディファイ
- Ready to Race コンディション
日産自動車は1968年8月、プリンス自動 車と合併後初めての新型車となる3代目スカ イライン(C10型)を発表する。そしてそ の年の10月に開催された東京モーターショ ーで、レーシング・マシンR380用のGR8型 エンジンをディチューンした2リッター直6DOHC“S20”ユニットを搭載した“スカイライ ンGTレーシング仕様”を参考出品として公開。 1969年2月にその市販版となるスカイライン GT-R(PGC10型)をリリースした。
5月に開催されたJAFグランプリTSレース では、日産村山工場で製作された4台のワー クスマシンがデビュー。結果は、トップでゴールしたトヨタ1600GTの失格裁定による繰 り上げ優勝という形ではあったが、それ以降 のレースでは圧倒的なパワーでライバルを圧 倒し、連戦連勝を飾っていく。 1970年にスカイラインに2ドア・ハード トップが追加されると、GT-Rも2ドアの KPGC10型へ発展。4ドアに比べ70mm短い ホイールベースと20kg軽くなった車体の効果 で運動性能が向上した。同時にレース仕様もさらなる進化を遂げ、ルーカス製機械式イン ジェクションを装着しドライサンプ化された 1989cc 直6 DOHC S20ユニットは、最終的に264ps/8400rpm、21.0kg-m/6800rpmを 発生したといわれている。そして1972年1月の富士300キロスピード レース・スーパーツーリングレースで、高橋国光がGT-Rの国内レース通算50勝を達成。 最終的には国内レースで57勝を飾り、現代にまで続くGT-R神話を作り上げた。
しかしながらマツダが小型軽量でハイパワーを誇るマツダ・サバンナRX-3を投入すると、大柄で前面投影面積の大きなボディ、エンジン単体で200kg、車両全体で1020kgという重 量が足かせとなり、GT-Rは次第に苦戦を強いられるようになる。それでも1972年後半にブレーキをフロント・ソリッドディスク&リヤ・ドラムから、 フロント・ベンチレーテッド・ディスク&リ ヤ・ソリッドディスクへブレーキへと変更す るなど細かな改良が加えられたが、10月の富士マスターズ250キロレース・スーパーツーリング・チャンピオン・レースをもってワー クス活動を終了。その後を引き継いだプライ ベーターたちも1973年シーズンをもってビッグレースから姿を消していった。
出品車は、東京・大森にあったメーカー直 系のレーシングサービス&チューナーという べき日産プリンス・スポーツコーナーで1972 年に製作されたKPGC10のレーシングモデルである。オーナーは後に佐賀県伊万里市で GTRサービスワタナベを開き“GT-Rの神様”と 慕われた渡辺茂。スカイラインGT-Rに心酔するがあまり、会社勤めを辞め、一時はスポー ツコーナーでメカニック修行をしていたという経歴の持ち主だ。渡辺はホワイトボディから、当時のレーシング・スペックに準じて仕立てられたKPGC10で、いくつかのレースに参戦。確認できる範囲ではビッグレースの出走歴はないものの、1975年5月の中国九州地区選手権厚 保グランド200レースで12位、8月のマスタリーシルバーカップレースNo1で10位、1976年11月の’76西日本500キロレースで南部誠司とコンビを組んで7位といった成績を残し ている。
特筆すべきはこのKPGC10が新車時からずっと渡辺の手元に保管されてきたワンオーナ ーカーであることだ。もちろんレーシングカーゆえ、レースを重ねていく中で渡辺自身の 手で改良を施された部分もあるが、そもそも当時レーシング・スペックでデリバリーされ たKPGC10の現存車がほとんど存在しない中で、これだけのオリジナリティを残し、しかもレディ toレース状態で保存されているのは 驚異的ですらある。そうした意味でもこのKPGC10は、日本の レース史、そしてスカイライン史を語る上で 貴重な存在と言えるだろう。